水戸の被害は、東北地方に比べたらずっとずっと軽症。それでも地震の爪あとはそこかしこにあった。同時に、地震から1ヶ月半で急速に修理や対策が行われてきた一端もたくさん見た。地震でできた段差や亀裂で通行止めになっていた道路は、かなり修理が済んで通れるようになっていた。急いで直すほどでもない凸凹はまだあちこちにある。駅前の歩道橋でもまだ通れないところもある。常磐線は早くもスーパーひたちが走れるようになっていた。ぐにゃぐちゃに曲がった線路を直していった方々の奮闘を思うと頭が上がらない。地震後閉鎖されていたという偕楽園(梅で有名)は29日から部分的に開園していたが、隣の常盤神社の燈篭はまだ派手に転がっていた。一般の墓地でも、墓石が無残にもあちこち転がったまま。(まだみんな自分の家や職場のことで忙しいのだとおもう)
外見的には一見無傷にみえる両親の家、実は屋根瓦をテープで止めて固定していたり、内装の亀裂・剥がれなどがそこここに。旧事務所兼自宅で鉄筋コンクリート作りの祖父母宅は、外装がごっそり落下して、鉄骨がむき出しになったり、窓ガラスが落ちたり、より派手な被害だった。この建物は今日から取り壊しが始まっている。
被害や不便なことを挙げたらきりがないが、とにかく家族が無事で感謝。母が地震後まもなく市からもらったという毛布は、難燃性のとても立派なものだった。父が出張中のなかでの震災で、連絡もなかなかとりあえず本当に大変だったと思う。
アメリカにいる私がインターネットでNHKニュースをみて、被害の大きさに言葉を失っていたとき、水戸では停電が幸いして、ひたすらラジオを聴く生活だった。随分たってから映像で津波の様子などを見て、より怖い思いをしたようだ。目の前の被害への対応だけで十分大変だったから、テレビが見られなかったのはむしろよかったろう。
本当は、片付けや祖父母の引越し作業でいちばん人手がいるときに行けたらよかったと思う。もう急ぐ作業はみんな終わっていた。地震のときごっそり棚や本棚から飛び出てきた私の古い本やノートは、両親がとりあえず機械的に棚に戻しておいてくれていたが、この機会にわんさか処分してきた。幼稚園の入園式でもらったカード、小学校1年生の「連絡帳」、大学入試センター試験の問題、模試の結果(なんでこんなのとっておいたのと、自分に怒り)やら。すべてとまとまんに見られてしまった。幼稚園時分の妹と小学生の私が出張先の父宛に書いた手紙には、お腹の皮がよじれるほど大笑いした。
今回の滞在は水戸のみで、四国の自宅やとまとまんの実家に行くのは次回までお預けだったけど、とまとまんが成田で迎え・見送りしてくれたというところがなんともぜいたくであった。私が美容院に行っていた時間以外、とまとまんとは1週間まるまる一緒に過ごせた。帰りの飛行機の中では、行きにも聞いた落語、立川志の輔さんの『買い物ブギ』をもう一回聞いて笑ってみたりした。
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